向日庵について

寿岳家居宅 向日庵について

 「向日庵(こうじつあん)」は、ウィリアム・ブレイクの研究やダンテ『神曲』の翻訳などで知られている高名な英文学者であり、民芸運動の推進者として、また日本の和紙研究や書誌研究においても多大な業績を残した壽岳文章(1900~1992)・しづ(1901~1981)夫妻・長女章子(1924~2005)が暮らした居宅です。
 京都近郊、向日市上植野町の阪急西向日駅をはさみ上植野町と鶏冠井町(かいでちょう)の一部にわたる地域は西向日地区と呼ばれています。昭和3(1928)年、新京阪鉄道(現阪急電鉄)の開設に伴い開発された田園都市型の郊外住宅地で、街路樹や噴水公園、ロータリーなどを備え、当時のモダンな郊外住宅の面影を今も残しています。

 壽岳文章・しづ夫妻は昭和8(1933)年、この西向日町に、藤井厚二門下の建築家・澤島英太郎に設計、監督を依頼して新居を構えました。施工にあたったのは熊倉工務店で、当主熊倉吉太良は藤井との交流を通して住宅建築の作風を吸収し、また民芸運動にも共鳴していた棟梁でした。住み慣れた南禅寺の家が手狭になったことと、日当たりの良さを求めて移って来たと、夫妻の通信・『向日庵消息』に書かれています。「向日庵」(ときには「向日居」ともよばれた)の名は、その地名によるばかりでなく、壽岳文章が若くして傾倒したウィリアム・ブレイクの向日葵の詩に因んで付けられたとも言われています。
 この「向日庵」は民芸の意匠を取り入れた近代和風建築として高い評価を受けていますが、寿岳家に集まる人々――柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司・芹澤銈介・黒田辰秋・棟方志功等などから贈られた民芸の品々を入れて年月を経るうちに民芸的な格が出てきたと文章自身は述懐しています。また「向日庵」は親子二代にわたる学者一家の住まいであり、文化創造の場でもありました。家族それぞれ書物と深い関わりのある当家では、独立した各室と、蔵書と資料の保管のための書庫はなくてはならぬ空間で、この住宅の特徴と言えます。「土地に即し、職業に即し、そして人格と良心に即してこそ美しい家であろう」という文章の家への理想を垣間見ることができます。

 「向日庵」は、書物を愛し、真の書物、紙の美を追求した文章が手漉き和紙を使って手ずからの装幀による私家版「向日庵本」の発行の場であったことは特筆すべきことです。転居の前年より私家本の刊行を発起していた文章は、向日町に居を構えてから夫妻で本格的に「向日庵本」つくりに打ち込み、昭和26年まで続けられました。夫妻は、ブレイク詩集の復刻や、『絵本どんきほうて』(絵・芹澤銈介)、『紙漉村旅日記』など数多くの良書を次々刊行、優れた内容と、その美しい文章と装幀の美は高い芸術性を備えています。

 さらに、「向日庵」は学者・文化人の集う文化サロンでもありました。親交の深かった柳宗悦をはじめ、バーナード・リーチや先の美術工芸家たち、河上肇や新村出、林達夫、住井すゑ、福永武彦、また戦後駐日英国大使となったジョン・ピルチャー、平成の天皇の家庭教師を務めたヴァイニング夫人、詩人のエロシェンコ、エドマンド・ブランデン等など国内外の世紀を代表するような人々が出入りしていました。多くの人々との出会いと交流によって民間の国際交流の場ができ、また新しい文化が生みだされ、文化の橋渡し役としての貢献は計り知れないものがあります。

 自然を愛する壽岳夫妻は古い民家が多く残る西山の風景と、みずみずしい竹藪の緑に囲まれたこの地が大いに気に入り、自らが考案した住居に満足していると度々書簡に記しています。現在も、80余年の風雪に耐えた民芸風の外観と、交わりのあった人たちとのゆかりの調度品や工芸の品と和紙のしつらえ、蔵書の詰まった書庫などが残されています。この寿岳邸は、大正デモクラシーの時代から、昭和の戦争、そして戦後へと激動の時代の変遷の中で、決して変わることなく良心を貫き、高い文化的な営みを続けた一家の慎ましやかな暮らしを今も伝えています。

住宅建築としての向日庵

 京都市文化財保護課の石川祐一氏は、壽岳邸の建築史的価値として次のように指摘されています。
1)大正から昭和初期につくられた中廊下式平面をもつ郊外住宅の一つである。
2)意匠や建築環境への考え方(通風、換気など)の設計において、建築家・藤井厚二の影響を色濃く受けている。
3)この背景には建築家と工務店とのコラボレ-ションがある。施工の担い手である工務店が建築家との交流によって作風や設計スキルを吸収して、一般に普及させていく役割を果たしている。
4)民芸運動の視点から重要な住宅である。民芸運動が展開した場であるとともに、内部意匠や調度品には、施主である壽岳文章の民芸観があらわれている。
5)「文化人」壽岳文章の邸宅としての歴史的・文化的価値を有する。文化活動の場としての価値に加え、著述家の住宅として書庫の空間が付加され、資料保存のために通風・換気に配慮した設計がなされている点に建築的な特徴が見られる。(「壽岳文章一家の文化的業績についての調査研究会・第1回例会」講演より)

寿岳文章著「家について」

(住宅文化研究会『家庭文化住宅雑誌 家』〔昭和16年2月号〕、p. 27.)
[ハーバード大学ハウフトン図書館蔵]

 大毎の京都支局から、『京郊民家譜』正続二編が先年出版された。京に田舎ありで、下鴨の社家屋敷や、西の京あたりをぶらぶら歩いていると、日々に変わってゆく都会の顔の中に、思いもかけず昔のままの民家を見出して驚くことがある。『京郊民家譜』は、そういう家をカメラでとらえて、これに専門家の説明を与えたものであるが、なかなか楽しい図譜である。特に今私の住む向日町界隈、すなわち西山の民家も多数収められているので、私には余計親しみが持てる。

 専門家の説に拠ると、京都はさすがに永い間王城であった土地だけに家屋にあらゆる建築の形式や技法が採り入れられた、日本全国の建築様式が、京都とその附近には言わば遺形のように残っていて、それらを見て歩くだけでも随分と家の勉強になる。とりわけ西山は、京都近郊のうちでは、一番純粋に古格を保っているので美しい家も多い。そう言われてから、私は自宅の近くを散歩する折や、また家族ずれで大原野や善峰あたりへ出かける二、三時間の山行きに注意して家の立たずまいを見るようになった。なるほど美しい農家が多い。特に秋の初めの強い夕日を受けて、前庭に植えられた花ものや畠ものの葉がそれぞれの光と色を吝みなく出して見せ、みづみづしい竹薮の緑が何とも言えぬ金色を呈する時など、思わず吸い寄せられたように、私の足はじっと立ちとどまって動かなかった。

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 私どもの住んでいるこの家は、七年ばかり昔、故藤井厚二博士の門下でいま官省に入って国宝建築物調査などの仕事をしている澤島工学士に、設計、監督をひきうけてもらった。当時南禅寺の家には手の離せぬ病人があり、何かと忙しいので、現場へは数回しか来なかったかと記憶する。しかし澤島氏と工務店の骨折りで予定の通り建った。何しろ安い予算なので、それはいつか本誌に山村酉之介氏が紹介されたほど立派なものでは決してなく、「壽岳のガラス家」などと称する口の悪い友人もいるが、結構私どもは満足してこの家に住んでいる。よくあの時思い切って建てておいたとさえ今は思う。

 だが、この土地に居着いて、周囲の民家の良さがきわめて自然に判ってくるにつれ、もしもう一度この土地に自分の家を建てる機会に恵まれるなら、こんどこそ始から終まで自分が監督して、周到な用意と構想のもとに、もう少し自分の性格を出した家を作りたいとの夢を描くこともある。その夢に描かれる家は多分に民家のよさを――第一に材料の建實さを取り入れたものであり、重厚、篤実な感じが溢れるものである。

 林達夫氏は、古い民家を改造して読書人のための立派な家に仕上げられたと聞いているし、それに似た試みはこの雑誌でも紹介されたかと思う。しかし家族の一人一人が書物を読んだり物を書いたりすることを条件とする私の家では、各室はある程度まで完全に独立した存在であらねばならず、かつ相当数の蔵書があるから民家をそのまま利用するわけにはゆくまい。家はそれぞれに用途の制約を受ける。過去三年間、北は秋田県から南は鹿児島まで、ほとんど隈なく日本全土の田舎を旅行して、地方の民家の美しさに打たれ通してきた私たちであるが、例えば養蚕を目的として発達した奥羽東北の二階造りの民家を、いかに外観が美しいとて、そのまま我々の生活にとり入れるわけにはゆくまい。風が強く吹きすさぶ地方にあってこそ、家の三方又は四方を囲む、あの常緑樹の亭々たる並木は必然の美しさをもつけれども、京都のように風はあまり吹かずに底冷えのする土地では別の考え方があってもよいはずだ。土地に即し、職業に即し、そして人格と良心に即してこそ美しい家であろう。

 

 

 

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