設立趣旨
近代日本の文化的発展が一つの頂点に達した昭和初期、京都乙訓に居宅「向日庵(こうじつあん)」を構えた壽岳文章一家は、学問と実践に取り組む生活を始めました。その「向日庵」において、壽岳文章が家族とともに営んだ文化的生活を、研究・顕彰して後世に伝え、日本及び世界に向けて広く発信するために、私たちは法人を設立しようと集いました。
壽岳文章は、関西学院高等学部や京都帝国大学に学び、後に甲南大学などで教鞭をとった英文学者であり、詩人ウイリアム・ブレイクの研究や、ことにダンテ『神曲』の翻訳(読売文学賞受賞)で知られています。また、柳宗悦との親交から民藝運動に草創期から参加し、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ、芹澤銈介、黒田辰秋らと幅広く交誼を結び、手仕事や工芸の復興に力を注ぎました。民藝の海外交流の場においても、専門の英語を活かし、重要な役割を果たしました。
結婚当初、京都市内南禅寺山内に住んでいた文章・しづ夫妻は、昭和8(1933)年、田園都市構想にもとづき開発された西向日町住宅地(現京都府向日市)に、澤島英太郎設計、熊倉工務店施工により居宅「向日庵」を建設します。設計者澤島は、「聴竹居」などの実験住宅で知られる藤井厚二の教え子にあたり、通気性に配慮し工夫を凝らした「向日庵」は、民藝の意匠を取り入れた近代和風建築として高い評価を得ています(『京都府の近代和風建築』2009年)。
壽岳夫妻は居宅を得た直後からここを拠点に、日本各地の和紙生産地を廻り、後にフィールドワークの嚆矢と称される調査を敢行します。収集標本を持ち帰り調査内容を整理保存し、和紙研究のパイオニアとして、今日にまでつながる業績を残しました。そして、文章が若年の頃からの師であった新村出をはじめとして、多くの仲間らとともに、生涯にわたって和紙生産の伝統保持と振興に尽くしました。
また、謹厳な書誌学者でもあった文章は、しづ夫人とともに、常に「本の美」を追求し、手ずからの装幀による書物を世に送り出しました。「向日庵本」と名付けられたこれらの私家本は、優れた内容と高い芸術性を合わせ持ち、今も光彩を放っています。
こうした活動を、昭和の激しい戦争のさなかにも営々と続けていたことは、戦後に交流が再開した海外の知己友人らから賞賛され、日本文化の奥深さと底力を世界に知らしめる役割を果たしました。「向日庵」は、戦後の駐日英国大使ジョン・ピルチャー、当時の皇太子殿下の家庭教師バイニング夫人ら、海外からも多くの著名人が訪れる、民間の国際交流の場でもありました。
文章とともに、和紙の調査と向日庵本の発行を担ったしづは翻訳・随筆家、長女章子は国語学者、長男潤は天文学者であり、一家はそれぞれの分野で、一流の研究成果と著述を残し、「向日庵」は親子二代にわたる文化創造の場となりました。「向日庵」の建物の内には、文章の設計による書庫があり、私淑した河上肇の著書など交流のあった学者・文化人の書籍や、英文学、書誌学などの学究生活を支えた蔵書が並んでいます。民藝の仲間が製作した家具や調度が詰まった部屋は、ここで暮らした壽岳家の人々が鬼籍に入り10年以上が過ぎた今でも、往事の姿をとどめています。
「向日庵」における壽岳文章一家の思索と実践に満ちた生活は、21世紀に入り科学技術が高度に発達した今日の社会にあって、振り返るべき大切な原点の一つです。それは「怠惰な回顧ではなく」「明日への約束」(壽岳文章『和紙復興』)なのです。「向日庵」とそこに残された文化遺産を活かし、新たな創造の糧とするため、私たちはここに特定非営利活動法人を設立します。
◆掲載写真提供:壽岳和子さま
このサイト公開にあたり、壽岳和子さまより掲載写真をご提供いただきました。ありがとうございました。