寿岳 文章(1900-1992) 英文学者/和紙研究家
◆英文学者として
英文学者、寿岳文章による仕事のなかで、もっとも知られているのは、イギリスのロマン派詩人、ブレイクに関する研究とルネサンス期の代表作であるダンテ『神曲』の翻訳です。
ウィリアム・ブレイクは、産業革命が進行するロンドンで生まれました。幻想力と画才にめぐまれ、幼少から独自の詩境をひらいていきます。寺院の子として生まれた文章は、ブレイク詩歌のなかに仏教思想に近しいまなざしを感じとり、ふかく共感しました。岩波文庫の『ブレイク抒情詩抄』(1931)は世に問われた最初の業績で、そこには社会の矛盾にさらされた弱者である子ども、労働者などに寄せる愛情が高らかに歌われています。
人間愛を根底にすえた文学を愛好する文章は、同時に、ダンテも愛読していました。上田敏の遺作『ダンテ 神曲』を寺町三条の書店から一晩借りて書き写したのは、まだ16歳の中学生でした。詩聖への敬愛は深まっていくのですが、1921年はダンテ没後600年、1927年はブレイク没後100年という時代の巡り合わせに邂逅します。こうした節目は後年の仕事への起点となり、ブレイク、ダンテという両詩人が、生涯にわたり文章の思索の源泉となりました。
ブレイク、ダンテへの傾倒には、ブレイクから民藝への道を歩んだ柳宗悦との交友がありました。まず両者のブレイク熱は、『ブレイクとホヰットマン』(1931-1932)という研究誌を発行するというかたちで結実していきます。後年、ブレイク研究により京都大学から博士号を授与されますが、その博士論文は国際的な名声をえました。専門領域をきわめるだけでなく、みずみずしい言葉で訳された『ブレイク詩集』(彌生書房)はロングセラーとなり、ブレイクの詩歌を一般読者に浸透させていきました。
一方、14世紀に書かれたダンテ『神曲』は、イタリア庶民のはなし言葉で歌われた韻文作品です。ブレイクを研究してきた「若々しい老文学者」が訳した『神曲』は、言葉の美しさと風格にあふれ、喚起力にとむ訳文は多くの識者から称賛されました。「地獄篇」の訳業には読売文学賞が授与されています。病床においても訳筆をとり、訳文の一行一句が読者の情感と理性に訴えたのです。1977年に「地獄篇」からはじめた訳業が「煉獄篇」を経て、「天国篇」へと完訳をとげたのは、1988年のことです。「詩霊よ、願わくは我に冥加あらしめたまへ」と詩神に願ってから、十年以上の歳月が流れていました。
ブレイクの銅版画に彩られた『神曲』(集英社)は寿岳文章自らが装幀をこらしました。ブレイクもまた、『神曲』の挿絵にとりくむうちにダンテに心酔し、原文で『神曲』を読むために、68歳でイタリア語を学びはじめました。ダンテとブレイクを並置することで文章が提唱したかったのは、人間性を追究していくための「世界文学的な」意義でした。
◆和紙研究家として
寿岳文章の和紙研究は、書物を構成するもっとも重要な素材としての紙への関心から始まりました。西洋の手漉き紙を調べるうちに和紙が世界でも最上の質を誇ることに感動をおぼえました。やがて、全国の紙漉き村を訪ねて著した『紙漉村旅日記』、正倉院の紙調査に代表される寿岳文章の和紙の歴史的な研究は、学術的にもその真価が高く評価されています。
昭和12年、文章は高松宮家から受けた基金により、静子と二人で全国の紙漉き村をくまなく歩き訪れました。足かけ4年にわたるこの調査旅行の記録は、『紙漉村旅日記』としてまとめられ、いまも和紙文化の精神性を訴えるバイブルとして読み継がれています。日中戦争が深刻化し、刻々と太平洋戦争突入へ近づきはじめる時代でした。この和紙行脚は、本格的なリサーチ研究の嚆矢として、民俗学者、宮本常一から激賞されました。訪れる村々で目にしたことは、改良という名の能率重視の製紙の現状でした。不思議にも稚拙な古法ほど美しい、物の美は同時に心の美でもある、との感動を得て和紙の復興を胸に誓いました。
昭和35年、文章は宮内庁の委嘱により正倉院の紙の調査を行いました。正倉院は奈良時代に東大寺に奉献された聖武天皇ゆかりの品々が収められた日本文化の宝庫ですが、大陸渡来の品には他国に現存しないものもあるため「シルクロードの終着点」といわれています。文章が調査を行った典籍、経巻、古文書なども例外ではなく、上代に用いられた紙の素材に直接あたって調査を行うことは、紙のふるさとに触れるということであり、紙に執着し研究する者にとってはこのうえない恩恵でした。
この正倉院の紙調査にいたるまでには、京都で新村出を中心に発足した和紙研究会での研究が基にありました。調査の成果をまとめた『正倉院の紙』(日本経済新聞社)は、遙か日本に伝わる紙の原点を具体的に示した大著として、紙の世界を繙く研究の礎になっています。
京都東山の麓を歩いた晩秋の午後、寺から漏れ聞こえる木魚の音とともに目にした、和紙障子に描かれた柔らかな光、それはまだ中学生だった文章が魅了された和紙の情景でした。戦争により滅亡の危機に瀕していた和紙にこそ、日本の文化と生活が凝縮されていることを見抜いた文章は、しずかに強さを秘めた和紙にこそ人間性をとり戻す力があると、『和紙復興』のなかで訴えています。それはノスタルジーにとどまることなく、環境問題から人間と自然の共生、自然愛をもゆりおこす喚起力をもった未来への提言ともなっています。
「人間はみなそれぞれの可能性をもっているのですから、その可能性の開発に少しエネルギーを集中すると、どの方面であっても好きこそものの上手なれで、好きな気持さえあればかなりのとこまで行けるんじゃないでしょうか。書誌学にしても和紙の研究にしても、私は決して脇目もふらずにやってきたわけではないのですが、この程度でも専門家あつかいされるということは、だれにもそうした可能性がある証拠じゃないでしょうか。これは、どの学問についても言えることではないかと思います」(寿岳文章)