設立記念講演 中島俊郎「文化遺産としての向日庵」2017.4.30

2017.4.30 設立記念講演会の講演録です。

「文化遺産としての向日庵」
―過去を見つめ、未来を見すえる「開かれた場」―
甲南大学文学部教授 中島俊郎

[講演全文]

壽岳文章先生は常々、ものごとを観察するのにはふたつの見方があるといっておられました。対象を巨視的に見る視線と、微視的に注視する視座――すなわち望遠鏡ではるか彼方を見るような見方と、手前にひきつけ肉眼でもって凝視する微視的に見るといった双方の見方を自在に意識的に使いこなせる重要性を説かれています。対象を立体的に、かつ具体的に把握するため、そうした両視座が必要であるというわけです。何ごとを観察するにしてもふたつ視座をたえずそなえておかなくてはいけないというのが先生の教えでした。

向日市の歴史的展開
今、私どもの財団はどのような意義をもつのか、なぜ設立しなければいけないのでしょうか。ここに「文化遺産としての向日庵」という演題がついています。当地、向日市のことを多少たりとも知らなければいけないと考え、壽岳先生の言われる巨視的な見方ではありませんが、幸い『向日市史』という地域史が当時の民秋市長のもとで上下2巻にわたり編纂されています。その「発刊の辞」が、簡にして要を得ていますので引用しましょう――
 
<向日市は、今から1200年前、宮都―長岡京―が営まれた王城の地でありあす。江戸時代に入って、西国街道沿いに商工業が発達し、乙訓郡内の政治・経済・文化の中心として栄えました。その後も、京都と大阪を結ぶ交通の要衝として発達し、とくに近年は、住宅都市として変貌を遂げているのであります。このような向日市の歴史的な発展の足どりを明らかにして、これを後世の人々に正しく、かつ詳しく伝えることは、現在に生きる私たちの責務であります。(向日市長、民秋徳夫「発刊のことば」『向日市史』上巻)>(下線部は引用者による、以下すべて同じ)

このように『市史』をひもといていきますと、長岡京から平安京に移るわずか10年間の都ですが、律令制度のもと、どのような生活が営まれていたのか、生活史としてもすぐれた記述が多く書かれていて、私たちは当時の人々の営みを理解できるわけであります。翻ってみれば、ここ乙訓は日本史そのものと言っていいくらいの歩みを形づくっている土地である、と言ってもいいのではないでしょうか。まことに豊かな歴史にあふれている地域であります。
弥生時代から長岡京へ、そして今日に至るまで歴史は延々と流れていくわけですが、そうしたなかで私たちが集って今、話題にしている向日庵の背景として考えられる、「住宅都市としての変貌」云々という箇所が『市史』に記述されています。今日、郊外都市の文化史、建築史というテーマは世界的に概観してみても学際的で多岐にわたる研究対象となっています。 

ここに神戸から持参しました大部な英語で書かれた『構想されたパラダイス―田園都市と近代都市―』(2013年)によりますと、この文献は研究の一端まとめたものでしかありませんが、郊外都市は人間の手で計画され造られたパラダイス(天国)、すなわちキリスト教の国の人たちの考えによりますと、都市は神の手により造られしもの、しかし郊外都市は人間がつくったパラダイスなのだという視座が展開されています。日本の例として東京の田園調布、大阪の千里ケ丘などが詳しく紹介されています。そして、ヨーロッパ、ロシア、北アメリカなど世界的な知見のもと、郊外住宅の諸例が大いに議論されています。そうした郊外都市の中に位置する向日庵はいま文化的な検討材料として、どのような分野からもリサーチ対象になり得るものであるという前提を、私たちは忘れてはならないと思います。昭和初期に郊外都市として発展を遂げていく推移のなかに向日庵はあったのです。おのずと、こうした見方には微視的、巨視的な両アプローチが必要となってきます。

他方、『市史』によりますと、向日市の願徳寺(宝菩提院)に元あった薬師仏檀像は弥勒菩薩像で有名な太秦広隆寺に移されて広隆寺の本尊として祀られています。こうした歴史の流れを注目しますと、五百年、千年という時間のスパンで文化を巨視的に、かつ微視的に見なくてはいけない土地柄がよく理解できます。私たちが生きている現在、つまり2017年ですが、千年後の3000年の未来から、逆に私たち向日の郊外都市文化というものを見たとき、向日庵がどのような意味をもつのか、そうした壮大な視座を忘れることなく、今日は向日庵について、ご一緒に検討していきたいと考える次第です。

向日庵の人々
今日、ご出席して下さっている方々のなかには、向日庵のこと、そこに住み生活をされていたご家族四人についてご存知で親交を深めておられた方も多々いらっしゃると思います。当主の文章先生をはじめとする四人のご家族が住まわれていましたが、四人それぞれを個としてみても、このご家族はゆうに研究対象となりえて、それぞれの分野において研究者が対峙し乗り越えて行かねばならない対象であります。

壽岳文章先生は、日本の書誌学の嚆矢ともいえる『ウィリアム・ブレイク書誌』を作成されました。そして書誌学の知見が英文学研究と連携を保ちつつ、やがて和紙研究の方へも進んでいかれ一家をなします。そして最後は畢生の翻訳、ルネサンスの傑作であるダンテ『神曲』を訳されて生涯を終えられました。
夫人であるしづさんは、不幸な生い立ちを創作の糧として早くから、(――昭和初期に、芥川龍之介全集とともに岩波書店の宣伝に掲載されていたのが非常に印象的ですが??)、『朝』という自伝小説でよく知られています。そして後年には『歳月を美しく』という創作集もあります。壽岳文章先生が教えられた英語力をもとにして、ハドソン、ジェフリーズといったエコロジーを主調とするようなイギリス文学の翻訳を数多くなされ、これらは古典として岩波文庫に入っていて今日でも広くの読者をあつめています。

そして壽岳章子さん、この方は壽岳家を代表するようなスポークスマンとして活躍されました。ご専門は日本語学でしたが、その枠にとらわれず、女性学からいわゆる世間知に溶けやすい、ことばを媒介にした歴史、ジェンダー、また京都の町家の暮らし、方言などに関する数多くの著述を通じて、私たちの蒙をひらいてくださいました。今日、話題になっています町家保存はつとに章子さんが力説されていたところで、透徹した先見性には驚かされます。
 京都大学を出て、東京大学天文台で研究されていた壽岳潤先生は、『星座をみる楽しみ』、『宇宙論はいま』などのご著書をお出しになっているばかりか、発見した星にはご自身の名前までついています。アメリカに留学され、その後、数え切れないくらいの英語論文を国際的学会誌に公刊されておられます。芯からの科学者で、俗信となっているような超自然現象を科学的に検証しようとされ、『スケプティックス』(懐疑)という国際的雑誌を発刊され、科学知の啓蒙に力を注がれました。

今、述べましたように、個々の業績は理解できるのですが、では向日庵という全体的なものとなれば、何が浮かんでくるのか。何を私たちに訴えようとしているのか。冷静に多大な業績をつらつら見るに、この四人が少なくとも文字を媒介にして、「ことば」でもって私たちに何かを伝えようとしたといえるのではないでしょうか。英文学、天文学、言語学から、日本文学などとまったく方向は異なりますが、その筆になり訴えてきた言葉は反戦、非戦を声高にさけび、自然との共存、相互扶助の精神を私たちに滔々と説いてくれました。今日でもそうした文字はいささかも古びてはいません。

ここにおられるほとんどの方は向日庵の建物をご存知かと思いますが、多くの方々がその中へ入った経験はないのでは、と思われます。潤先生の追悼集からとらせていただいた写真をご覧ください。最初にある写真が潤先生にとって、青年期まで過ごされた住居、向日庵です。ここで写真というヴァーチャル空間をざっと一緒に歩いていきますと、向日庵の四人がどのように暮らして、何を考えて、何を見つめてきたのか、今改めて再検討を迫られているようです。
ここに「私たちの歩んできた道」という短い一文がありますが、これは日本文学史上でも類例がないと思われるのですが、先生は夫婦を個とした著作集を出されました。『壽岳文章・しづ著作集』全6巻を紹介するために自らお書きになった一文ですが、ここにおふたりの人生観が要約されているゆえに、意味深い一文と言えましょう。

<この夫婦は、いつも自分の目で見、自分の目でたしかめて、媚びず、臆せず、正しいと信ずる一すじの道をこつこつと歩み続けてきたようである・・・昔のかしこい人は、自分のうちにささやく静かな小さな声を道標として、人生の航路を歩んだというが、この夫婦も、自分たちの生活信条にできるだけ純粋であろうとした。(『壽岳文章・しづ著作集』案内文)>

ここで説かれている「自分のうちにささやく静かな小さな声」、これはどのような声なのでしょうか?これは私がことさら規定してしまうのではなく、ここにおられる皆さまがひとり一人考えるべき「ことば」ではないでしょうか。そのため、今日、私の話は示唆するにとどまるだけではないか、と思います。でも同時に、それでいいのだと思うのです。個人の生き方は押しつけるものではないからです。では、生きることについて、どのような発言がなされたか、具体的に検討していきましょう。

壽岳文章「洋の東西を問わぬ人の縁」
朝日新聞の同じ欄に、親子がそろって掲載されたという珍しい例がここにあります。その一文というのは、1990(平成2)年3月に載りました「自分と出会う」という壽岳文章先生の記事と、ほぼ10年後、1999年2月に載った潤先生の記事であります。これを対照していくと、面白いことがわかってきます。ハーバード大学の理事であるケラーという著名なドン・キホーテ収集家がいるのですが、そのケラーからの依頼が先生のもとに届きます。これは、名作『ドン・キホーテ』を世界規模で収集して、書誌を編纂しようという壮大な計画でありました。日本におけるドン・キホーテ文献を蒐集して欲しいという依頼が文章先生のところへ舞いこんだわけであります。ところが依頼は書誌だけではありませんでした。つまり美しい挿絵の入った和製の『ドン・キホーテ』制作依頼まで加わったのであります。
 
<貴国人は古来絵画芸術にすぐれているのに、現行の貴国絵入り本に見るべきものが一つもないのは残念だ。こうなれば万事君に任すから、君が適当と思う現代の日本画家の、われらの親愛なる騎士(ドン・キホーテのこと)の名をはずかしめない作画がほしい、と言う。柳宗悦や河井寛次郎とも相談の末、白羽の矢を芹沢銈介に立てた。染色家の天分に恵まれた芹沢に不可能なはずはない。>
 
ここで言及されている名前は民芸運動の中心的な指導者で、壽岳先生も自らこの運動の最先端に立たれたわけですが、このように先生の日常環境のなかで、何ら違和感もなく民芸の世界に生息しておられたことが伺われます。しかし、そうしたこと以上に、ケラーとのつき合いが、どのような性質であったのか、が語られている興味深い一節に私たちは遭遇します――
  
<・・なくて困っている物質があれば遠慮なくいってよこせと次信にあったので、私の靴型を紙にとって送ったら、ボストンのチャイナタウンでやっと見つけたのがこれだ、と何足か送ってくれた親切も忘れない。京都大学で天文学を専攻した息子が戦後最初のフルブライト留学生としてミシガン大学に入ったと知るなり、所定の学費だけでは不自由だろうと月々若干の金員を送金してくれた。(壽岳先生らしいのは次のことばです)洋の東西を言あげしないこの種の出会いをこそ、私は妙好趣と呼びたい。(朝日新聞1990年3月12日「自分と出会う」)>

この「妙好趣」とういうのは先生の造語であります。「妙好人」とは浄土真宗で在野にある俗信徒のことを指しますが、「趣」も浄土真宗では死後における存在の状態を意味します。この言葉を先生はどのような意味でもって言われたのか、大いに考えさせられるところであります。
そもそも先生の考え方にはたえず、仏教、浄土真宗、ブレイクが並置されていて、そうした先賢が書かれた行間を自由に行ったり来たりされるのです。たとえば、先生がまだ京都大学に籍をおいている頃に書かれた文章が載っている雑誌『英語研究』(大正13年)をみますと、「ウィリアム・ブレイク 法悦のうた」(壽岳紫朗)とあります。法悦という言葉、紫朗というペンネームはブレイク本来の意味から大きく逸脱していると思うのですが、深く考えてみると納得させられます。
先生は海外の学者の説を模倣・紹介に終始する英文学研究の在り方に疑問を感じておられました。柳宗悦と先生のブレイク研究は学説の模倣をことさら避けようとする傾向がありました。そのために最初は大いに誤解されましたわけです。つまり仏教の教義とキリスト教圏の教義が一致するわけはない、というわけです。確かに表面的にはそうでありましょう。しかし、その文章の冒頭を見ますとブレイクの顔のことが書いてあります。「ブレイクの顔にはどこか、わが国の古代の芸術家が木彫りした明王や菩薩の面影が似通う」という一文があるのですが、つまりたえず仏教文化においてロマン派の巨匠とを相対化して先生は見ていたことが、よく理解できるのです。あくまでも自己本位の立場は崩されませんでした。

壽岳潤「報われることの無い研究を続けて」
文章先生のこうした言葉を受けて10年後に壽岳潤先生のほうは「報われることの無い研究を続けて」という文を、同じ欄に書かれています。こうした一文から向日庵ではどのような教育がなされていたのか、どのような人間と交渉があったのか、という内実がよく伝わってきます。
 
<私は、小学生のころから星空に関心を持った。当時、大阪の四ツ橋にできたばかりのプラネタリウムに月替わりのテーマを毎回聞くために、一年以上、京都から通い続けた。原田三夫著の『子供の天文学』(太陽系の話をしている啓蒙書―引用者)と山本一清編の『天文学講座』が現在の私の天文学に関する知識の基本を形成したと思っている。>

人文学者・英文学者であられた文章先生が、わが子に対しては、人文系に行けとかそのような助言は一切なさらず、理科系の天文学へ自由に進ませます。しかし、つらつら考えると、ウィリアム・ブレイクと天文学は関係が無いのかといえば、これまた表裏一体をなしていることが分かってきます。星を一方は理知的に、他方は情感的に見ていたのかもしれません。潤先生は文章の最後に以下のような言葉を述べられています。

<「あなたは宇宙人の存在を信じますか」と尋ねる人をよく見かけるが、科学は信ずる、信じない、の問題ではない。意味のある設問を科学的に判断できることが分かった場合、それを追究するのが科学である。ちなみに、昔、ソクラテスは天文学の有用性よりも、その非実益性の重要さを説いたが、時の政治家は危険思想としてかれを排除したのだ。(朝日新聞1999年2月16日「自分と出会う」)>

これは学者として毅然とした、並々ならぬ自信にあふれた「ことば」だと思います。壽岳潤先生は学者として発信をしたばかりか、いわゆる専門家とアマチュアとの架橋をたえず考えられていました。

では、このような一家が生み出した、つまり全体としての向日庵ですが、私たちの設立趣旨書に次のような一文があります――「向日庵は戦後の駐日英国大使・ジョン・ピルチャー・・・など海外からも多くの著名人が訪れる民間の国際交流の場でもありました」、と。敗戦国の民間人の家に、戦勝国の英国大使がやって来る、この文言でしたらそのように読めます。しかし、私たちが解明しなければならないのはこの先なのです。
ピルチャーはケンブリッジ大学を出て、すぐに日本にあった英国大使館の通訳部門に応募します。その2年後、京都に移り日本の仏教を知るために、相国寺で2年間修業します。もっとも得意としたのは京都弁をあやつるという大変な親日家でもありました。つまり、この向日庵へピルチャーがきたということは、ウィリアム・ブレイクを話題にしたということもあるでしょうが、もっと大切なことは、壽岳文章先生と仏教に関する知見を分かち合ったという事実です。こうした共通の知見のうえに立って、時事問題から生活にまでわたる問題を語り合っていたのです。つまりこのピルチャーは英国大使で、日本、英国両国の橋渡しをした人であります。こうした文化の読み換え、解釈という営為を考えていきますと、翻訳こそ文化の架橋作業なのです。では、次に翻訳という視点から壽岳家の人々を考えていきましょう。

翻訳の周辺
若き壽岳潤先生と父、文章との間でどのような交渉があったのか、それが、いかに現代的な意味をもつのかを、ここでその一端をお伝えしておきたいと思います。
 
<戦後父はギルバト・ホワイトの『セルボーン博物誌』を岩波文庫のために翻訳しましたが、その索引の製作を私が引き受けました。父は索引の重要性を強調していましたが、私もそう思います。・・・・
情報を伝えるための書籍の形態はほとんどかわっていきますが、紙を使った本の形態は永遠に(人類の歴史で)不滅だと信じます。父が日本に定着させようとした造本の思想が、どなたかに引きつがれてゆくことを望みます。(壽岳潤「父の思い出」『壽岳潤追悼集 地上の星座』)>

今日、私たちはこの索引(インデックス)の大切さが目にみえる形で、日常生活に溶け込んでいます。それはインターネットの情報検索です。単語を見出しとして検索していくと、その内容を知ることがすぐにできます。つまり「目次」と「索引」は表玄関、裏玄関という以上に、どちらも相当な重要性があるのです。壽岳先生は索引がもつ重要性を痛いほどお知りになっていて、名著が翻訳されても、索引をつけようとしない日本の出版界の悪しき慣習をよく嘆いておられました。潤先生の達意の英文を拝読しますと、父からどれほどの恩恵を受けたのか、想像をついふくらませてしまいます。書斎のある書物を自由に使わせてもらうだけでも、子供には計り知れない勉学の機会となるのです。潤先生はあの森林のような書斎でどれほどの知見をはぐくまれたのでしょうか。

エコロジーの系譜
文章先生が訳された『セルボーン博物誌』の中に、英国詩人エドモンド・ブランデンが序文を書いています。ブランデンは東京大学の英文科教授で、多くの教え子から崇拝された教師でありました。そのブランデンは大変な酒好きで、壽岳先生から近くにサントリー醸造場があるから飛んでこい、という誘いに惹きつけられ向日庵を訪れたという逸話を残しています。ブランデンは原爆ドームの石碑に平和を祈る詩文を捧げますが、訳詩をつけたのが文章先生であります。博物誌の名著とうたわれる『セルボーン博物誌』に寄せられたブランデンの「序文」を文章先生がみごとに訳されています――― 

<今また私は、ホワイト畢生のこの名著の、壽岳文章教授の手になった翻訳のよろこび迎えられるのを、重ねてうれしいことに思う。これは、訳者の持つセルボーン風の親和感(自然への敬愛・一体感―引用者)や読書域(ブレイクにはじまる先生の専門とするロマン主義の知見―引用者)からみて、訳者にとってはこの上もなく打ってつけの企てである。私は彼が(壽岳先生―引用者)ホワイトに新しい読者圏を与えてくれたことを、心からの喜びとする。なぜなら、ホワイトの示す態度の重要さは、ただ、文学の世界だけにとどまるものではない。>

古典が最適の訳者をえて古典としてよみがえる瞬間です。そして、最後に、この名著が何を訴えているのか、ブランデンの手によって説かれています。この結句は、人類の未来に対するひとつの宣託とも受け止めることができます。

<今後人類が生き残ってゆくかどうかは、ひとえに爾余の自然に対するこの態度にかかっていると言っても言いすぎではないのである。(エドモンド・ブランデン序文「序文」壽岳文章訳『セルボーン博物誌』)>

私たち日本人の先祖は、一寸の虫にも五分の魂が宿るといって、生命を慈しみました。ところが、いつしか日本は大国になって生きとし生きるものを尊ぶ自然観を捨ててしまい、公害をもたらすような産業の邁進をはかっていき、大きな代償を後代が支払うようになってしまいました。これは大きな教訓です。

しづ夫人とハドソン
さて、英語を通じて翻訳による文化の橋渡しがよく具現化されるのは、夫人の翻訳を通じてであります。夫人は大学などに行かずに文章先生から直接に英語を学ばれたと聞いています。では、しづ夫人はどのような作品を翻訳されたのでしょうか、またその意義はどこにあるのでしょうか。しづ夫人はこの向日町の竹林を愛でて、何度も何度もその美しさ、雄勁なしなやかさをお書きになっています。そうした一文を読むにつけ、私たちは向日庵の人たちが、いかなる自然観でいたのかがよく理解できます。
W.H.ハドソンの『はるかな国 とおい昔』は今日でも版を重ねている名著中の名著であります。然るべき訳者をえて、原作がどのようによみがえるのか、典型的な例をここにみる思いです。巻末にあるハドソンの文章は以下のごとく訳されています。漢字とひらがなの割合の絶妙さがひとつのリズムを奏でて、読者を思わず引き込みます。凡百の訳者ではこのようにはならず、表面をなぞらえるだけで終始してしまいます。

<自然との交わりがもたらす幸福は、決して失われるものではなく、私がお話しした、あの機能のおかげで、私の心に及ぼす力を、だんだんと増し加え、再び私のものとなるのでした。(一度自然のもとで感化されたら、私たちが逆に養育されていくのだー引用者)だから、長い長い間、自然との交わりを断たれて、ロンドンに住み、貧しく、友もなく、病気がちの日々を送らねばならなかった私の最悪の時代さえ、なお、生きていないよりは、生きているほうが、ずっとずっと、はるかによいと、私はいつも感じることができたのです。(ハドソン 壽岳しづ訳『はるかな国 とおい昔』)>

自然はかくのごとく生きる力となり、自然は感化力を私たち人間に及ぼしていくわけです。多くの歳月を超えて、初版から版を何度も重ねていき、今日でも岩波文庫のラインアップとして輝いているという事実は、いくばくか誇りとしてもいいのではないでしょうか。

壽岳文章と戦争 
しかしこのような自然というものが、もっとも相対化された姿で示されるのは、言うまでもなく戦争であります。戦争という未曾有の出来事に、壽岳先生はどのように向き合ったのでしょうか。
1936(昭和11)年7月7日、日華事変が起りました。その年に神戸女学院・関西学院大学の共催というかたちで、日本英文学会が開催されました。これは英文学者、教育者がつどう学会で1,000名くらい会員を擁していて年一回、研究発表と総会を開くわけですが、その折の所感を記した先生の一文が残っています。

<私自身の関与したものでは、第二次世界大戦の危機が刻々と日本へも迫った年次に、関西学院大学で大会が持たれたとき、英語聖書の各版を集めて展示し、隣の神戸女学院でも協賛の形で珍しい讃美歌集を出してもらった。その目録を作ったのは私だが、聖書を選んだことに平和への願いをこめての、一つのresistance でもあった。ところが、身をキリスト教プロテスタント系の学校に置きながら、同時に大会の名において、英米二国に対し、日本の国策の正しさを声明する決議文を送ってはどうか、などと言い出す会員もおり、私をうんざりさせた。(壽岳文章「思い出を一つ二つ」)>

こうした参戦を是認するような発言をまえにして、何のための学問かと先生はいぶかしく思われたはずです。そして、1942(昭和17)年、すでに戦時下になっていますが、石田憲次という壽岳先生がいたく尊敬していた京都大学の英文学科主任教授は、昭和17年の英文学会の挨拶のなかで、次のような発言をしています。
  
<戦時下に於ける英語英文学者は、かの潜水夫が水中深く潜って真珠を?みとって来て人に示す態度、僧侶が俗縁を断って精進する意気込みをこそ堅持すべきであり、之に対し世人は寛大な眼で我々の研究の成果を待つ態度こそ望ましい。(石田憲次「昭和17年英文学会会長挨拶」『日本英文学会 五十年小史』)>

研究者は世俗から離れた存在で、特権的な位置にあり傍観するだけで眼下におこなわれている戦争を非難するような態度は微塵もうかがえません。これはきわめて尊大な態度だと思います。机上の空論も甚だしいと思うのですが、壽岳先生は書籍展示という沈黙に近いレジスタンスを示されました。こうした反戦
の形もあるのです。向日庵私家版もそうですが、先生は愛する書籍を通じて反戦をとなえました。だが、それは先生を、戦時中、ある意味で非常に孤立させていく一面ではなかったかと想像します。

壽岳文章「民芸品と平和の問題」
戦争という緊急の問題を民芸運動の関連で見ていきますと、「民芸品と平和の問題」という一文が書かれています。人間が生きるうえで何を第一義にしなければならないかという意味で、きわめて重要なので全体を読んでみましょう。

<そこで私は言いたい。民芸運動は、それを支える堅固な土台として、平和を守りぬく強い信念に徹しなくては、本物にならないのではないかと。日本が再軍備を始めても、それは一向苦にならないで、いわゆる民芸品をせっせと集める人。戦争を必要悪だと認め民芸品の蒐集に何の矛盾も感じない人。そういう人は、徹底した民芸運動には無縁であるばかりでなく、民芸の理念を混乱にみちびく実証者の役目さえはたすことになるだろう。さらに一歩進めていえば、民芸品の美しさはわからなくても、全身全霊を平和の確立にささげている人があれば、私はその人を、民芸品の美しさはわかっても、平和の確立に無関心な人よりも、はるかに高く評価し、はるかに深く尊敬する。(壽岳文章「民芸品と平和の問題」『柳宗悦と共に』)>

こうした問題と関連するのですが、文章先生は「向日庵版」というプライベート・プレスを起こされていましたが、戦後落ち着いてきて、紙の配給も潤沢になり、経済状態が復興した頃に書かれた文章があります。1951(昭和26)年に『日本古書通信』という愛書家の人たちが読む雑誌に投稿された一文です。ここでも趣味性におぼれてしまい、生きる目的に何ら関心をむけない人々を糾弾しています。

<最後に、私は日本の愛書家と称する人々に、絶望を、否、ときには憎悪すら覚える。彼らは、一般に蒐集家のもつ共通の弱点から免疫でない。人生において何がもっとも大切であるかの反省は、薬にしたくも見出せないようなタイプが、この蒐集家人種には多い。美しい書物を数多く集めることは、無邪気な道楽で、何もさしつかえないないではないかと言われればそれまでで、それにとやかく干渉するつもりは毛頭はもっていない。ただしかれらを軽蔑することは、私の自由である。私の軽蔑する人種が大部分を占めている愛書家を目あてに、私版を出すことに意義を認めないのも、また私の自由である。これをもって向日庵私版を復興しないことの弁とする。(壽岳文章「なぜ向日庵私版を復興しないか」『日本古書通信』1951年)>

戦後日本に起ってきた、戦争に対する無反省な態度を先生は非常に訝しく思っておられました。ほとんど愛書家の手に渡ってしまうような私家版の存在を認めることはできない、とよくこぼされていましたが、「向日庵本が書店のショーウインドーで麗々しく飾られていた」という話を聞くのを、もっとも嫌悪されていました。
 向日庵の人たちは、「ことば」を媒介に伝えることを、非常に大切にする人たちでありました。だから壽岳家の人々は「ことば」というものが、戦争に関与する危険性に対して、きわめて敏感でありました。

壽岳章子と言葉
壽岳章子先生には、『日本語の裏方』というエッセイ集のなかに印象深い文章があります。日本の文学者の多くが「大東亜戦争」を賛美しました。大和魂」でもって高揚し、挙国一致を礼賛してやまず、散って英霊となるのが、日本国民の務めであるということがまことしやかに謳われていました。高村光太郎、武者小路実篤なども愛国心あふれる詩や文章をものしました。作家、文学者が戦争に加担した現実を踏まえて、章子先生は思慮のない情緒への耽溺がいかに危険ものであるのか、といった警告を発しています。

<戦争の性格がどのようなものであれ、戦争遂行のためには、「詩」の持つ感化性が大変必要である。兵士は辞世をよみ、銃後の世界ではまた戦争文学の大きな部門として、和歌の類が華やかな振舞いをみせた。愛国百人一首が定められたり、著名作家による文集が出版されたりした。現在の歴史的視点から見れば、甚だ大きく深刻な問題を負うているいわゆる大東亜戦争というものが、どのように甘くごまかされたか、情緒が一人歩きする時、いかにお人よしで無防備であるか、そしてなぜそれ故に罪さえ犯してしまうのかということが、ありありとわかる資料に、それぞれがなっている。>

日本文学に潜在する「滅びの美学」というものを、じつに危険なものだと、戒めているわけであります。最初この本は講談社から出ました。そして10年後、需要があったのか、もう一度、創拓社から出るわけです。その時に書き添えられた「あとがき」が非常に印象深いので、一緒に検討してみたいと思います。

<もっとも、歳月の経過が現在の私の思考に何の変化も起こさなかったと言い切れもしない。たとえば本書中の佐藤春夫(軍国主義を賛美して、南方へ出征していく兵士たちを鼓舞する和歌を作り、麗々しくこうした本を出版したことに、章子先生は強い怒りを覚えたー引用者)への言及などは、少し手厳しすぎたなどとは現在思っている。彼自身の戦争中のいらだち、怒りなどを知る機会があって、要するに佐藤春夫はいささかお人好しだったのだとは思う。しかし、軽々に言っては、してはならぬことが人生にはあるのだとの思いもまたいっそう近頃の私には強いのである。それゆえに、敢えて手を加えず、原形のままにした。いずれにせよ、再びこの書を世に問うことができて私は嬉しい。私の「裏方」好きはますますその度を加えているからである。(壽岳章子『日本語の裏方』創拓社版「あとがき」)>

こうした言葉を通じての発言、メッセージというものが、向日庵の中から、親子二代にわたり強く発信され、父娘の発言が共鳴し時代の声になっていったのです。お二人が共著で出された幾冊かの本にはほのぼのとした親子の情愛のなかに、何か強靭なゆずらない姿勢を垣間見ることができます。

「向日庵」の意義―建築と思索―そして未来をつくる
では最後に、向日庵が発した内容と、それを包む建築との関連に移っていきましょう。つまり向日庵が建築史から見て、これまで話してきたことと、どのような接点をもつのかという問題を検討していきましょう。
向日庵は先ほど言及した郊外住宅運動の一環にあり、そこでは住宅改良、とりわけ女性の場である台所の改良が、声高に要求されていました。西双岡住宅展覧会が催され、「1500円で瀟洒な住宅を」と銘うたれた惹句が衆人の関心を集めました。会場に住宅が三軒、熊倉工務店から出品されていますが、当時の目録をみますと、向日庵とよく似た住宅も展示されています。ここに熊倉工務店の熊倉吉太良の建築に対する見解が紹介されている文章がありますのでご覧ください。

<熊倉吉太良は、後に「思いますに室温の調節、換気、照明、日照など何れも機械文明に頼り過ぎ、自然に逆らう人間生活の本質を忘れたかのような、見せる家、見る家が増えつつ在ることは悲しいことです。匠の道に今こそ温故知新、不易流行の不易、すなわち伝統を生かし流行を即ち現代性を生かし盛りあげることに思いを寄せ、技と徳を磨きつつ在る棟梁たちとその後継を目指す若人たちの御健闘を祈るものであります。」と語っている。吉太良の「自然に逆らう」ことのない住宅への志は、科学的な目で日本の自然に適した住宅を模索する藤井(藤井厚二―引用者)の姿勢から大きな影響を受けたものであった。吉太良は、戦後京都民芸協会の会員となった程、民芸を愛好していた。吉太良と民芸との出会いはどのようなものだったのだろうか。・・・向日町(現、向日市)の壽岳邸は向日庵と名付けられ、壽岳の私版本製作の本拠地となった。壽岳邸は、真壁造の和風の外観を現している。(石川祐一『近代建築の夜明け 京都・熊倉工務店―洋風住宅建築の歴史』)>

自然と共生していこうとする建築家の姿を壽岳一家のそれと重ねることができるわけですが、通気性がすぐれた家屋というような矮小化した姿で向日庵をとらえるのではなく、「自然」との共生という大きな環境論の枠組でとらえるべきであると信じます。
柳宗悦は、河上肇とともに壽岳先生にもっとも影響力をもった人物です。反戦、非戦に対する強い思いも共通しています。この30年、柳自身が研究対象として、もっとも過酷な局面に立たされました。ひと昔まえは、ひたすら、柳を賛美する方向で評価は進んでいましたが、その反動か、逆に柳批判からはじめなければならないような情勢が少なからず続きました。しかし、そうした渦中に壽岳先生の向日庵をおいてみますと、私たちはその民芸運動研究にまつわる議論、論争、批判そして、研究の進捗から多様な知見をえることができます。たとえばイギリスのクラフト運動がはらんでいた諸問題と重なってくる部分も無視しえません。コブデン=サンダースンが私家版制作で突き当った問題を向日庵本もかかえもっています。今後はこうした諸議論が盛んになってきて、壽岳家がはらむ問題はより活性化されていくでしょう。またそのような議論が起こらなければいけないでしょう。
先ほどお配りした資料の裏面をご覧ください。向日庵には民芸の調度品が多くあります。しかし、私はここで誤解を恐れずに申し上げると、向日庵をこの民芸調の、倉敷にあるような民芸館、また駒場にある日本民芸館を模倣するような施設にしてはいけないと思います。
もう一歩進めて言いますと、先生と民芸のつながりを否定しようとするのではなく、むしろ逆ですが、先生が棚の上に民芸の壺をおいた、皿を置いた、そのお気持ちはどんなものであるか、昨今の言葉で言えば、あえて忖度することが、私たちの大きな仕事だと思います。高名な芸術家の作品が構えることなく置かれているのですが、作品そのものに何を探り、何を先生が求めていたのか、といった根本的な問題を問わなければ意味がありません。また、そうした態度なくして先生が発した問いとは対峙できないと考えるわけです。
たとえば、向日庵では句会をはじめブレイク詩をめぐる読書会、ハドソン作品の輪読会、和紙の創作教室、翻訳ワークショップや天文学講話など、多彩な催しが展開されることが可能でしょう。しかし、民芸調のつくりに敷かれた畳の隅から何かが湧き上がってきてくる気配を感じます。最初に申し上げた「自分のうちにささやく静かな小さな声」、この小さな声はか細いがゆえに容易に消えてしまいます。そして、わかりやすいものだけが残ってしまうでしょう。だが、文化史の追究、営みはこの消えてしまうか細き跡をたどっていき、その跡を未来に継いでゆくことこそが、大いなる仕事となってくるのではないでしょうか。
つまり壽岳一家がお住まいになっていた向日庵は、動態保存と同時に発信の場であらねばならないと信じています。ここに出席して下さっている皆様が向日庵の中に入って、「自分の内にささやく静かな小さな声」に耳を傾けて、それぞれが「自分の声」で発信する、それが、私たちに託された、壽岳先生から継承する一つの、紡ぎだされた向日庵の糸ではないでしょうか。そして、この糸を次の世代に継承していくことこそが、『向日市史』にうたわれていた精神にほかならないのではないか、と私は考える次第であります。

私の拙い話を長時間にわたり、ご静聴いただきありがとうございました。

[文字起こし、長尾史子、文責、中島俊郎]

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