河野德𠮷「和紙を分析した寿岳文章氏 ~『国史大辞典』とのかかわり 外国人から見た和紙~」
私は鎌倉に住んでおります河野です。寿岳さんとは非常に懇意にしておりました。武家の出ですから私は学徒出陣にあたり、戦いは厭いませんでした。でも、知的な面で戦争孤児のような状態になってしまいました。海軍の直轄の研究所でゲルマニウム研究や電子物理をしていましたが、昭和23年にアメリカ国務省に呼ばれて入ったベル研究所は秘密兵器も手掛けていて、ノーベル賞受賞者がわんさといるようなところでした。それでも、やはり私のいる場所ではないなと思いました。今でも科学分野の仕事や、国際医学情報センターの監査役などをやっています。電子関係の機械も大変進んでおりますが、遺伝子の組み換え、認知症の問題などを考えると、やはり電子物理には非常に重要な役割があります。先の講演の宇宙空間のお話に比べると、私の話はもっと小さいものですが、研究というのは分野に関わらず非常に難しいものです。
寿岳さんは、ものをよく見ろといいました。たとえば今日は紙の話ですが、私は紙を調べるためには、そのときに持っている紙を撫でてみるのです。なにかというと人間はものをすぐに推測をします。推測とは何か。それはまだわからないことを見て知ろう、観察して知ろうとすることです。すると、人間が一人ひとり違うように、紙も一枚ごとに違うことがわかります。私は夜なべをして紙をみながら、紙と対話をします。対話をしながら、紙の善し悪しや使い方、自分に近いか遠いか、そのようなことを考えます。
今、京都でも紙屋さんがだんだんなくなってきていますが、あぶらとり紙はずいぶんと売れていますね。しかし、字を書く紙はもう失われてきています。と同時に、それをつくる人も、紙屋さんもなくなってきてしまっている。一年の間に二十軒、三十軒も倒れています。紙というのはなくなってしまうのは早いもので、スマホ世代の二十代の人達は、字を書かない、字がわからない、書けない、文字でもって着信もしなければ発信もしない。私の今日のテキストは、すべて筆で書いてきたのですが、こうして書いていると人間のありさまがだんだんわかってくる。紙もそうなってほしい。例えばこちらに、みごとな和紙を使って世界に発信している女性の方がいます。私はその方に敬意を表しますが、そのように日本人がどんな生活をしているか、発信をすることが必要ではないでしょうか。
さて、寿岳さんの文章をみていると、息子さんにも教えているのだなと思うのが、やはり文学ですね。私はこの目で見たのですが、寿岳さんは若いころ、英語の辞書をいっぱい持っているのです。例えば、ウェブスターの、こんなに厚い版、あれにはシェイクスピア時代の英語と現代用語も入っている。そのウェブスターの紙を見ると、字が表から裏に透けません。表の字が裏側に映り出てきたりしたら読めたものじゃない。ところが日本紙は面白いのですが、正倉院の紙を見ると表も裏もない。今まで紙の研究に携わり、正倉院の紙を多く見てまいりましたけれども、裏側に書いてあるなかに素晴らしい人脈がでてくるんです。例えば聖武天皇とそのお妃である光明皇后です。当時の紙をみていると、紙の質が進化してどんどんよくなっていって、羨ましいほど立派な紙ができています。私は東京国立博物館の客員教授として正倉院に潜り込んで紙をみていたわけですが、それを私はいま、夜に指先で見るのと同時に、電子機械、高度の顕微鏡を覗いて見ています。すると宇宙空間ではないけれども紙をみていると、なにか友達がどんどんやってくるわけです。例えば、その紙の裏側をみてみると、光明皇后が夫の聖武天皇が病気になっていく様をみて、はやく治してあげたいと仏様に祈る、そのときの経文が全部書いてある。恐ろしいことに、どこの誰がどうやってこの紙をつくったのか、つまり紙の作者が出てくるのですが、このようなことは、今はあまり顧みられていない。人間には裏表があるんだよ、ということをここで言いたい。
寿岳さんはそういう点で非常に面白いことを私にちゃんと教えてくれました。『ウェブスター英語辞書』のほかに『オックスフォード英語辞書』というのがあります。この辞書の紙、ライスペーパー(rice paper)の裏表が非常に薄い。『ウェブスター英語辞書』に使用されている紙よりも薄い。『オックスフォード・ポケット・英語辞書』は学生用につくったオックスフォードの辞書ですが、これを見るとオックスフォード大学出版局の人たちは凄いことをやっているなと思いました。江戸時代の後期、英国から調査員が日本に派遣されて、日本でいえば「白書」、英国ではブルーペーパー(blue paper)といいますが、それにきちんと日本の絵巻のことも残しています。このようなことは海外や英国には見受けられますが、我々はそこまで辿ることもなく、ただ推測だけでおわってしまう。我々はやはりそこから先に行ってみたい。私はもう九十歳を過ぎてしまいましたが、自分の生きざまというものがなくてはならないと思う。やはり私は紙が大好きなのです。
しばらく前に読んだことです。戦後の首相、吉田茂の息子である吉田健一(よしだけんいち)さんはペンクラブの人ですが、あるとき健一さんは、フランスでの国際ペンクラグ大会で、「紙がなくなる日」というとてつもない講演をしています。やはり紙は日本人にとって大変重要なことではないでしょうか。彼は、紙がなくなったら一体どういうふうになるだろう、と問いました。まずいちばんいいのは、お札が消滅して、銀行家がいなくなる、そうするとツケがなくなる、そういった面白いことを書いている。ある日お札が宇宙にとんでいったらどうしましょう、まず今日、私はもう東京に帰れない。このように私たちは誰もが生活のなかで紙との関係があり、紙を使って様々なことを考えていかなくてはならないのだ、ということをここで言いたい。
『国史大辞典』
昭和30年の初期、『国史大辞典』をつくろうと、東京大学の国語学関係の先生方が集まりました。そのなかの竹内理三(たけうちりぞう)という『大日本古文書』の編纂を成し遂げた方が、岩波書店が引き受けてくれるということで人を集めたとき、そこには寿岳さんもいました。お慕いしていた寿岳さんに引っ張られて一緒に出て行った私は、参画を申し出ました。すると寿岳さんはまず、いったいお前はどんなことを考えているんだ、『国史大辞典』というのは日本の歴史にこれから何世紀も何十世紀も残っていくぞ、だからこれには間違いがあってはだめだ、と私を叱咤しました。私が中途半端にしていたら、これから百万語ある『国史大辞典』の紙の項を洗い浚いすべてにわたり、説明をどうするか、字をどうするか、ふりがなをどうするか、と質問攻めです。私は恐ろしくなって、僕はもうやめます、といったら、「やめるわけにはいかないんだ」、と。紙の博物館の館長に、「熊本バンド」なんていう名前を寿岳さんが付けていたのですが[註:初代館長の成田潔英は熊本県出身。後出]、熊本の人間は非常に恐ろしいからよく考えておけ、お前はクビになるぞ、と苛められました。しばらくすると『国史大辞典』の版元を岩波書店ではなく、吉川弘文館が引き受けることになりました。吉川弘文館は編集者が非常に厳しいので、私はいちばん嫌いだったのですが、あっというまに岩波書店の編集者がヘッドハンティングにかかって沢山入ってきた。そうなったらもう岩波書店も吉川弘文館もおなじです。そこで寿岳先生はうまく紙の連合体をつくりました。
世に知らせ伝える和紙
和紙のなかでユネスコ無形文化遺産に登録されたところがいくつかありますね。小川(細川紙)と、美濃(本美濃紙)と、島根(石州半紙)と。これは第一回目の人間国宝になった安倍栄四郎(あべえいしろう)の私宛の手紙です。ここにある成田潔英(なりたきよふさ)は王子製紙の人ですけれども、この方を寿岳さんは翁、おきな、と呼んで尊敬しておられ、お前もこういうことをやれと言われました。考えた私は、調査に約二年半をかけて研究ノートをつくりました。石見の紙は、国際的によく知られ、ヨーロッパの辞書にも使われている紙ですが、ここに国東治兵衛(くにさきじへい)という人が出て来ます。ここには方言がいっぱい出ていてわからない、どうしたらいいのか。寿岳さんは現地に行って全部書き写せというのです。遠くにあっても近くに見えるように、また多くの人たちに残るように書け、と。私は今でも寿岳さんを尊敬しますが、おそらく息子の潤さんとよく似たところがある。この研究ノートは、十数年経ってから『国史大辞典』の役に立ちました。国東治兵衛は、江戸時代中期に紙のあれほど立派な本を書いてそれが世界中に伝わりました。彼は国東半島の人で島根県に移ります。私はその方言の読みを不思議に思った。国東半島は土佐に近く、国東の言葉は九州の言葉と土佐の言葉がぴたりとあうのです。
この写真は、ひとつひとつごみを取り除いて紙をつくっているところです。この作業は今でも一所懸命やっています。こういうものを見ると、これは土佐でやった、国東でやった、と紙をみればよくわかります。
これはのちに寿岳さんからいただいたものですが、見ますと表紙になにも字が書いていない。では次のページをみると、十数ページにわたって白紙ばかりで何もない。書誌学者といわれる寿岳さんですが、これは変だなと思った。中ほどになってはじめて「日本の紙」とあります。実はこれに書いていませんけれども、寿岳さんの有名な『紙漉村旅日記』、その残りの紙をここに貼ってある。面白いですよ。「はじめに」なんて非常におもしろいことを書いてある。世に憚るようなことを書いてある。昭和20年10月1日に書き始めたとあり、最後のページを見ますと、おわりが終戦20年月12月24日クリスマスイヴ、と小さい字で書いてあります。出版者や頒価などは書いていない。謎の小冊子ですが、このような遊びをやっているというのは、ただものではないですね。実はこんなことがありました。当時、京都大丸の隣に占領軍、連合国司令官のアメリカンセンターがありました[註:第二次世界大戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)によって日本各地に開設された「CIE図書館」のこと]。責任者はクーガー司令官でしたが、私は大学から派遣されて、三か月間そこで紙の研究をやっていたのですが、入り口の奥に日本の古典が置いてあって、そこに本書があった。読んでいくうちに、この著者は文学者である、と私は思いました。「日本の平和」と書いてある。これは当時、戦争の終わった年のクリスマスですね。平和になろう、といっているんです。きっとこれは、お子さん、息子さんにも伝わっているでしょう。これには外国人の名前が続々とでてきて、外国人で日本語を読める方は非常に高く評価しています。京都外国語大学、学長の鈴木幸久(すずきゆきひさ)がこれを見て感心しています。
このようなことが、『国史大辞典』をつくっている長い間にはたくさんありました。七年間はこれにかかりきりでした。この辞典は全十七巻、寿岳さんはこれを最後まで看取って完成したわけです。だんだんと痩せ細っていく寿岳さんを大学病院に連れて行きましたら、これはもうまもなく、と言われたそのときには愕然としました。このようにひとつのことを最後まで成し遂げられた寿岳さんの生きざまは、さきほど話をされた先生と何か通じるところがあるのではないかと思います。
和紙の知識
次に、外国人がみた日本の紙。これは元々はオランダ語で書いてあったのですが、あとでご覧ください。ケンペルが著した『日本誌』の図版で紙の材料を追跡していくと、楮(こうぞ)という文字に突き当たります。【展示資料:Engelbert Kaempfer: The History of Japan (1727)】。それから、『諸蔵産紙鬮前』[製紙博物館(後の紙の博物館)写(1953)『諸蔵産紙御尋答書1-3 諸蔵産紙鬮前一件記』]、これには日本の紙の商業史がすべて書かれています。『奉書紙の判元・商人史―内田吉左衛門』に「鬮前(くじまえ)」というものが出てきます。「鬮(くじ)」は門構えに亀という字を書きますが、この「亀」とはいったい何でしょうか。日本で決まっていた商方法のひとつとして、「亀」を「くじ」に使いました。仲良く亀がいるところに、順番をきめてエサをやる。どの「亀」がエサを食べるかで決める「くじ」です。日本の紙は、あるひとつの法則によって全国に流通していきました。
それからこれは『内田家文書』です。これをはじめて調査したのは70年前でしたが、『三田村和泉家文書』など三万件ほどの文書を記録するために、約三年がかりで通って全部フィルムに撮りました。これはそのなかの一部分をまとめたものです。何百回も寿岳先生は文章の読解を助けてくださいました。このような文字を読んでいくうちに、そこから、困っているのか、儲かっているのか、人間模様がよくみえてきます。
京都に紙屋川という川があり、角に巨大な紙屋がありましたが、ここは気の毒にも戦争の直後に壊されました。桃山時代から営業していたこの紙屋には、越前の紙、奉書紙がありました。これが内田家文書とぴったりあう。そこにいる中条という人達に会いました。ひとつ頭にいれておいてください。
これは最近わかった室町時代の紙漉の絵です。【展示資料:「洛中洛外図屏風(上杉本)」より】奈良国立博物館の館長だった湯山君も感激していましたが、これで今とは全く異なる当時の紙漉きの様子が解ります。京都の紙はどのような干し方をしていたのか、それだけでもぜひ覚えておいてください。白壁に、貝の粉にしてつくったのが白壁ですが、そこに貼ると貝がそのまま吸収して、そうすると瞬く間に立派な紙ができる。そこに出ている紙をつくっている人たちは、非常におおらかですね。
北には北野天満宮があり、南には松原通りにもうひとつの天満宮があります。ここを行くとちゃんと絵にでてくる紙屋川の支流があります。また、なぜ京都には疎水がつくられているか。高瀬川には二本の鳥居があって二本の川がある。船の行き来を良くするようにそんなことをやっています。このように紙の流通はとても面白い。この絵のすぐそばにギヤマンの絵もあります。ベトナムの船も、オランダの船も、立派な絨毯がかかっているのもあります。この『上杉文書』を読んでいるとこういったものが出てきます。日本の人達は古いことを器用に使いながら進化させている、日本人はそういう点で稀少で、どんどん進歩をしている。我々にとってその進歩がいま重要ではないでしょうか。日本の政治をみても一等国に近かったのが、だんだんおちてきた。文化のたて直しをするためにも、紙についても大切にしていきたい。そのために皆さんはまず、紙を大切にお使いになるとよいと思います。
紙の博物館
皆さんがもし紙を知りたければ、紙に手を、指先をあててみてください。紙の光沢も、透明度も、力も、よくわかります。紙というものは、大変優雅なものです。日本の心であり美学でもある。日本の紙は大切にして使おうじゃないか、これが、私が寿岳さんから教わった学問です。寿岳さんは大変優雅な人でありましたけれども、ときどき喧嘩もしました。喧嘩をしながらでも、理がかなうときにはちゃんと褒めてくれる。私はそういうところに晒されてきましたけれども、他にも、紙屋もいれば、映画監督も、学校の先生もいて、寿岳さんが東京に来る度に、私達は大変優雅な勉強を教わっていたわけです。この寿岳先生を指導したのが新村出先生です。新村先生は非常におおらかな人で、先を視る、それこそ宇宙空間をスイスイと飛び跳ねて私達に指導してくれるような方でした。それから、いま国際医学情報センターを開設していますが、科学者の大沢忍(おおさわしのぶ)先生です。この方は世界的なパピルス研究の第一人者で、エジプトにあるパピルス研究所に行きますと、そこには大沢先生の写真が飾ってあります。
鬮前制度とは
さいごに、「鬮前(くじまえ)」のことについてお話します。近松門左衛門の『心中天網島』を読んでいる人は思い当たるのではないでしょうか。大阪の義太夫にでてくる「紙屋治兵衛(かみやじへい)」です。「鬮前」は紙屋の営業手法です。魚市場ではすべて袖の下で取引がされるように、紙にもそのようなものがあり、指で一本、二本というように入札、値付けをします。これには、江戸時代に急激に市民が紙を使うようになったという背景があります。江戸では十組問屋と言っていました。紙業と寺小屋の共同経営を忘れてはなりません。まず、寺小屋ができたことで紙の需要が増します。松原通りにあった一軒の紙屋さんの主人は最近亡くなりましたけれども、その方が寺子屋教育用のテーブルを蔵から出してきて、紙屋を営みながら寺小屋をつくっていたから紙が売れた、寺院にどういうものを売っていたか、など紙の商法を詳らかに教えてくれました。そこから受け継いでいろいろなことをやっていた若い森田さんの家は立派な家ですね。
こうして「鬮前」がだんだんと進化した紙の取引は、各藩でつくった御用紙、上紙は武士同志で分け合うようになりました。なかでも杉原紙「杉原(すいばら)」は最も古い取引の材料でした。「鬮前」が取引をする紙には信用があり、関西の紙も、西国の紙も全部大阪に、淀川に集まりました。淀川を船で上ると京都に入ります。京都の人は、例えばさきほどの大森家(上記の紙屋川の紙屋)のでは、奉書に色を付け、絵を描いて、その紙を加工して江戸に送っていました。江戸ではそれを錦絵に使った。大阪の中之島は江戸幕府の御領所で、江戸幕府がそこに行って、紙の取引を株屋と同時にやっていました。この取引のなかで紙は、原料、材料によって上中下さまざまに位置づけられていた、ということをここでお話ししておきたいと思います。
お手元の地図をご覧ください。どこに奉行所があるか、代官屋敷がどこにあるか記してあります。中之島はどこにあるか、江戸に紙を売る場所がどこにあるか、こういったところをよく見てください。幸田露伴の弟に、大阪市史を長年手がけてきた幸田成友(こうだしげとも)という人がいます。幸田先生からは、オランダの紙業の中心はアムステルダムですが、レンブラントの話や、紙がどうやって流通したかを教えていただきました。幸田先生はたくさんの書誌学の本を書いておられますが、先生の本は面白く、言語を勉強するためにも非常に役に立つ。先生が晩年、名誉教授として自分の大学のなかからこれぞというのを集めて、大学の教室ではなく自宅講義を何年かされました。私もそこに入れてもらって書誌学の勉強をして資格を得ました。どうぞひとつこの地図を手に大阪を歩いてみてください。まだ紙屋が何軒かあってよいところだと思います。
実は心臓にステントを入れるような大手術をした折、もう数時間で亡くなると宣告されたことがあります。その時、意外なことに心は華やぎ、音楽が聞こえてきました。何が進化で、また何が後退かを近頃よく考えます。皆さんの健康を祈りましてこれでお話を終わりたいと思います。雑談でございましたけれども、これで失礼いたします。ありがとうございました。
[文字起こし 長野裕子]